2018年3月30日金曜日

お姉さんから、おちんちんを抜いて〔回顧〕

 お姉さんから身体を離しながら、不安に思っていたことを聞きました。
「昨日から中に射精しちゃってるけど大丈夫なの?妊娠しちゃうんじゃないの?」
お姉さんは笑いながら、
  「私も看護婦だから良く判ってるわよ。心配しなくていいのよ。」
「どうして。。。。?」
  「う~ん、今まで妊娠したことないし、多分子供ができない身体だと思うわ。」
「そうなの。。。変なこと聞いてごめんね。」
  「気にしなくていいのよ。ず~と以前から判ってることだから。。。」
「・・・・・」
  「だから、安心して出していいのよ。貴方もその方が気持ち良い筈だから。」
「違いは判らないよ。経験ないから。。。」
  「あ、そうだったわね。ゴメン、ゴメン。」
「だって、お姉さんが初めてだから。。。」
  「オナニーする時、コンドームつけないの?」
「そんなことしてないよ。出そうになった時チリ紙で受けてるから。。。」
  「そうなの。へぇ~、そんな風にしてるんだ。。。」
「他の人はコンドーム使ってるの?」
  「私はコンドーム使うって聞いたわよ。でも、どんな方法でもいいんじゃない。」
「うん。」

  「明日帰るんでしょ。だからもう一度浣腸しておこうか?」
お姉さんは、突然女性から看護婦さんに変身したようでした。
ソファーの上で、裸の私は、両足を持ち上げられ、裸の看護婦さんに浣腸されました。
イチジク浣腸の注入が終わると、チリ紙でお尻を押さえている様に私に言い、何かを取りに行きました。

 オマルを持って戻って来たお姉さんは、何かゼリーの様なものを指に取り、チリ紙で抑えているお尻の穴に指を挿入しました。 お姉さんが指が結腸のあたりで何かをまさぐっています。 不思議な快感が下半身を覆い、意識していないのにおちんちんが勃起してしまいました。 「気持ちいいの?」お姉さんの声、「なぜか気持ちいい。。。」、「前立腺って云うのよ。」

 快感に酔っているうちに、浣腸が効いてきたのか、「出ちゃうよ・・・」、「じゃ~、ここでしなさい。」と言われるままに用意されたオマルに排泄しました。

会話で興奮、そして〔回顧〕

 互いの身の上話しに、お互いが興奮しているのは明らかでした。 母親の様なお姉さんに積極的には行動できず、じっとしていると彼女が私に覆い被さって口づけをしてきました。

 やがてお姉さんの手が私の下半身を這い、ズボンの中に手が入ってきました。 パンツをはいていないので、お姉さんの手は直接私のおちんちんの辺りを弄る様になり、私の身体はピクリとしたのを覚えています。

 起き上がったお姉さんは、私のズボンを脱がせ下半身を裸にしました。 そして私を立たせると自分がソファに横になり、私を呼びました。 下半身裸の私はおちんちんを固くし、お姉さんが招くままに覆い被さり口づけをしました。
 「脱がせて!」と言うので、上半身をとると乳房が丸出しになり、私の手をお姉さんの乳房に誘いました。 掴んだり、揉んだりと母親の乳房を触る様に弄っていました。 「下も!」というのでズホンを取るとお姉さんは全裸となり、私も自分で上半身を脱いで全裸になりました。 そしてお姉さんは私の手を取り自分の陰部へ導きました。 私の指先を持って、
 「ここがクリトリスよ。そしてその下がオシッコが出るところ。。。。あ、あ~っ!」
お姉さんのその辺りは、かなり愛液で潤っていました。
 「そして、その下。。。。ここが膣で、ここにおちんちんを入れるの。」
と言いながら、私のおちんちんを掴みながら、自分の両足を上げ、私に恥部が丸見えになる様にしました。

 私は自分のおちんちんに手をあてがい、先端をお姉さんの膣口に圧しつけました。 お姉さんが私の腰を引き寄せたことで、おちんちんはお姉さんの膣の中に吸い込まれました。 ゆっくりとおちんちんを出し入れすると、「いい、いい、あ、あ~っ!」と私にとっては、初めて目の当たりにする女性の「善がり声」と反応に凄く興奮しました。
 お姉さんが反応すればするほど、私も高まって、「でちゃうよ~。」、「いいわよ。そのまま。。。だし。。あ、あ~。。だして。。」、「うん」、「一緒に逝こっ!」と私はお姉さんに抱き着いたまま、おちんちんが脈打ち、お姉さんは私の腰を引き付けてその感覚を受け止めてくれました。 「できたね。」と褒めてくれました。

相互レクチャー 私のこと〔回顧〕

 自分のことを話し終わったお姉さんは、私のおちんちんを普段着の上から触りながら、
  「貴方は、幾つぐらいから浣腸されてたの?」と聞かれました。
「判らないよ。。。。ウンチ出ないね。と言われながら浣腸されてたから。。。」
「浣腸されて、オマルに跨るのが当たり前のことの様に思ってた。」
  「へぇ~、そうなの。」
「よく熱を出して寝込んでたので、その時は、熱が下がるからって浣腸だった。」
  「そうよ。便が溜まってると熱が下がりにくいから、浣腸使うことあるわね。」
「やっぱりそうなんだね。」
「それに体温測るのもお尻だったよ。」
  「まぁ、その方が正確だけど、家で肛門計って珍しいわね。」
  「お店にも置いてるわよ。置いてても売れないから使ってもいいわよ。」
「えぇ~、大人になってからお尻で測るって恥ずかしいよ。」

「幼稚園に行ってるころには、浣腸ということに興味を持ったのは覚えてるよ。」
「その頃に脱腸になって大変だった。」
  「手術しなかったのね。脱腸帯使ってたって言ってたわね。」
「叔母のところに従妹が居てね。その子も僕の家で浣腸されてたことが何回かあったよ。」
「従妹と一緒に浣腸されたこともあったし、従妹も脱腸帯のこと知ってたんだ。」
  「へぇ~。」
「その子が僕んちに泊まった時、一緒に寝てて、脱腸帯見せてっているから。。。」
「寝床の中で触らせてあげたんだ。 その時、互いにアソコも触ったよ。」
  「あら!」
「子供なりに、自分と違うところが気になったんだと思うけど。」
  「それは、よく判るわ。」
「小学校へ行ってからも脱腸帯してたよ。」
  「不便だったでしょ?」
「身体検査と体操なんかで着替える時が嫌だったなぁ。」
  「お友達にバレちゃったんじゃないの?」
「最初の頃は、”脱腸”、”脱腸”って冷やかされたよ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・
  「幾つぐらいで、脱腸は治ったの?」
「小学校2、3年のころから、お医者さんに脱腸帯しなくていいって言われたかなぁ。」
  「その後も浣腸はされてたの?」
「うん。。。。されてた。。。中学校行ってからもされたことあるよ。」
  「自分から頼んだの?」
「違うよ。嫌だって言わなかっただけだったけど。。。ちょっとだけ、されたかった。」
「小学校の高学年の頃に、勃起しているのが判って、射精さされちゃった。」
  「へぇ~、私が元旦那にしたのと同じね。恥ずかしかったでしょ?」
と、触っていた私のおちんちんをギュ~ッと握って、悲鳴を上げる私を笑っていました。

相互レクチャー 彼女の話し〔回顧〕

 東京の母親(薬局の女性)は私の子どもの頃のことに興味を持っていました。 同時に私も彼女が私と同様の浣腸嗜好になった理由を知りたいとおもいました。

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 ケーキを食べ終わり、テーブルにはイチジク浣腸が置かれた状態で、互いの過去を話した。 コーヒーカップを口へ運びながら、口火を切ったのは私でした。
「浣腸を使う様になったのは、僕と同じで便秘が原因なの?」
  「そうよ。私も貴方と同じ様に子供のころは、浣腸されることが多かったわ。」
「へぇ~、やっぱり子供の頃に浣腸されると大人になって好きになるんだね。」
  「私はそれが原因じゃないわ。子供の頃は浣腸されるのが嫌だったんだ。」
「じゃ~、どうして?」
  「別れた旦那のお陰で好きになったんだと思うわ。」
「どういうこと?」
  「看護婦の仕事を初めてから、忙しいのと立ち仕事で便秘になることが多かったの。」
「看護婦さんは大変だよね。」
  「仕方がないから、よく自分で浣腸したわ。」
  「元の旦那は、実は働いていた病院の入院患者さんだったの。」
  「毎日じゃないけど、私の担当の患者さんで、ある時便かでなくて浣腸したの。」
「へぇ~。。。」
  「そうしたら、その患者さんたら、おちんちん勃起させてたの。 本人も判っていただろうけど、恥ずかしそうにしていたわ。」
  「昨夜の貴方もそうだったから、思い出しちゃったの。。。。」
「浣腸で勃起する人って結構いるのかなぁ。」
  「私、その人のこと気に入ってたので、個室だったし、射精させてあげたの。」
「看護婦さんって、そこまでしてあげるの?」
  「ちょっと好きだったから。。。」
  「そんなことが何度かあって、その人が退院してから、付き合って結婚したの。」
「へぇ~、ドラマの話しみたいだね。」
  「結婚してから、判ったんだけどその人浣腸が好きだったみたいで。。。」
  「私にも浣腸を強要する様になったの。そのうち私も浣腸で性的に。。。」
「・・・・・」
  「性的に興奮する様になって。。。」
「僕と同じなのかも。。。」
  「でも、夫婦でそんなこと続けてたら変になってしまうと思い始めたら耐えられなくなって別れたの。」
「・・・・・」
  「私と別れて暫くしてから、病気が再発して結局亡くなったわ。」

  「でも、私自身、浣腸のことが忘れられなくなってしまったみたいで。。。。」
「忘れられないって。。。?」
  「時々凄く浣腸が欲しくなって、自分で浣腸しては、自分で性的。。。」
  「性的な興奮を求めちゃうの。。。。」
  「昨日、貴方に浣腸してて色々思い出したら、凄く興奮しちゃったの。」
「それで、浣腸いれて~って言ったんだね。」
  「恥ずかしいから言わないで。。。」
「僕もそうかも。。。。オナニーしてしまうんでしょ?」

こんな会話で、私のおちんちんが勃起しているのを見て、普段着の上から触られてしまいました。

2018年3月29日木曜日

2泊目の薬局での夜〔回顧〕

 出張最終日、東京での仕事を終え、ケーキの土産を持ち帰った夜は、衝撃的な昨夜とは違って、和やかに過ごすことができました。 彼女(薬局の女性)も独り暮らしの寂しい夜とは違い笑顔で過ごすことができている様でした。

 ケーキを食べ、コーヒーを飲み寛ぎながら、昨夜のことを思い起こしていました。
「一昨日の夕方、浣腸を買いに来た時、どんな印象だったの?」と聞くと、
  「なんか凄く恥ずかしそうで、一刻も早く店を出たいという感じだったわ。」
「そらそうだよ。やっぱり浣腸買うって恥ずかしいよ。」
  「でも、女性と一緒に浣腸買って帰る男性も居るわよ。」
「へぇ~、恥ずかしくないのかなぁ。」
  「ホテルで女性と一緒に楽しむのかなぁ~。。。って想像しちゃうけど。。。」
「楽しむって? 何を?」
  「昨夜みたいによ!」
「・・・・・」

「お姉さんが浣腸入れて~って言った時は、ちょっと驚いたけどね。」
  「私。。。凄く興奮してて。。。今思い出すと恥ずかしいわ。私のこと軽蔑した?」
「そんなことないよ。軽蔑してたら、今ここに居ないよ。」
  「ありがとう。」と言いながら席を立ちました。

戻ってきたお姉さんの手に、イチジク浣腸が握られており、テーブルに置きました。 そして私に覆い被さって口づけをしてきました。 トレーナーの様な普段着の上から私の股間に触ってきました。 下着を着けていなのでダイレクトにその刺激を感じてしまいました。

私に身を預けながら、
  「昨日は初めてだったみたいだけど、今夜は色々教えてあげるね。」
「お母さんの性教育なんだね。」、 「そうよ。」
と彼女の性教育が始まることになりました。

2018年3月26日月曜日

『今日はウンチ出たの?』 〔回顧〕

 『今日はウンチでたの?』という言葉は、子供の頃から「耳にタコ」状態でした。 私の成長と共にその言葉の回数は徐々に減少し、社会人になってからは時たまと言った感じでした。

 東京出張で偶然私に訪れた幸運は、『今日はウンチ出たの?』と言う日常的だった言葉も連れてきました。

 出張の時はビジネスホテルに宿泊する必要がなくなり、幸運を齎した薬局に当たり前の様に滞在できる様になりました。 始めにうちはお互いの親密度が浅いこともあって、来客という感じでしたが、親しさが益すことで会話も家族の様になっていきました。

 出張初日の仕事が終わって薬局に行くと、顔を合わすなり、
   「いらっしゃい! 暫く振りね。どう?最近はちゃんとウンチ出てる?」
と聞かれ、薬局に滞在した日も仕事が終わって薬局に戻ると、
   「今日は朝トイレ行かなかったけど、お腹の調子はどう?」
と聞かれてました。

 自宅での母親に投げ掛けられていた言葉が、そのまま東京の地での再生です。 この言葉は一生私につきまとうのではないかと思えました。

 自宅での母親と大きく違ったのは、私のことを聞くだけでなく、その後、自分の情況報告がありました。 例えば、
   「今日は浣腸しなくても、いいウンチがでたの。だから調子いいのよ。」
   「昨日から全然でないの。。。。お腹張っちゃって。。。!」
などの言葉が続きます。

 「お腹張っちゃって。。。。」という言葉を聞いた時は、「浣腸されたいんだなぁ。。。」と解釈できる様になりました。 考えてみれば、私もお姉さんにそんな風に直接的でない表現をしていたのかも知れません。 いずれにせよ、浣腸やウンチという言葉が、挨拶言葉と同じ様に出現する身辺のアブノーマルさを意識せざるを得ません。

 しかし、ブログを書いている今は、誰からもそんな言葉を掛けられることもなく、寂しい限りです。

薬局からの通勤〔回顧〕

 東京のお母さんに見送られて薬局を出た出張最後の日、帰りがけにケーキを買って薬局に戻った。 「お帰りなさい!」の言葉に気恥ずかしさを感じながら、土産のケーキを渡すと、
 「わぁ~嬉しい!!食事の後で一緒に食べようね。」
と喜んでくれた。
 上着を脱ぎネクタイを外した。 「先にお風呂どう?」と言われ、そうすることにした。 出張用に持って着た下着の替えを準備していると、「そこに普段着用意してあるから着替えてね。パンツは履いたらダメよ。」、「うん。」と言いながら裸になって入浴した。

 風呂を出て用意された普段着を下着を着けずに身に着け居間へ行くと、食事が用意されていた。 「好き嫌いが判らないから適当に準備したけど、だいじょうぶかなぁ。」と言いながら食卓に料理を並べた。 「好き嫌いは殆どないよ。量は食べないけどね。」と話していると店に来客があった様子だった。 「は~い!」と言って応対にでた彼女は暫くして戻ってきた。 「若い女性で、風邪を引いた様で。。。ということで風邪薬と浣腸買って行かれましたよ。」、「へぇ~。」、「貴方だけじゃなくて、浣腸買う人結構居るのよ。殆ど女性だけどね。」、「男性は珍しいよね。」、「だけど病院に居た頃、便秘になる男性って結構居たわよ。貴方と同じ様に摘便してあげたこともあるし。」

 用意してくれた食事は、関西とは味付けが違ったが、和食で美味しかった。 「美味しかった。」と言うと、「口に合って良かったわ。これから来てくれた時は腕奮うね。」と喜んでいた。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

彼女が食事の後片付けをしている間、テレビを見ていた。 お笑い番組だったが、見ていても面白く感じないことが面白かった。 関東と関西では笑点が違うんだなぁと感心した。 やがて台所からコーヒーの香りが漂ってきた。
 ケーキとコーヒーをお盆に乗せ、テレビのテーブルに置いて、
 「美味しそうなケーキね。 どれ食べる?」
と言いながら私の横に座った。 彼女の背中に手を回し引き寄せると口づけをした。 長い口づけとなった。

2018年3月25日日曜日

こんな一日でした

≪2018年3月25日(日)晴れ≫

 今日はこのブログを整理しました。 だいぶ前のことが今日の出来事の様に蘇ってきます。 薬局の看護婦さんには、このブログには未だ書いていない色々なことを教えられました。 浣腸に纏わる恥ずかしいことをされたし、彼女も恥ずかしいことを求め一緒に楽しんだと思います。

 その頃は、感じることはありませんでしたが、母親と私の看護婦さんは同じ様な感覚だったんだろうなと思う。 どちらも私を可愛いペットの様に捉え、浣腸嗜好が相俟って、便秘治療と浣腸行為のターゲットであったのかも知れません。

 東京出張時の宿泊場所がビジネスホテルから「薬局」になったことで、出張ではなく自宅と同じ様な母子生活の様になった。 それが毎日ではなく、出張期間の僅かな時間だけだったので、仕事と秘密の嗜好が100%満たされる時間となりました。 出張を延長してレジャーも楽しみました。

 ただ、自宅での母親との生活と大きく違ったのは、東京の薬局では〔母親+妻or恋人〕という様な感じで、下着の着用についても彼女が決めていました。 このことは別の機会にブログにしたいと思います。

 今は年齢相応のストレスにまみれの生活ですが、当時のそんな生活は夢物語の様な生活が楽しく思い出されます。 今日もストレスが原因なのか、浣腸オナニーをしてしまった。

東京出張の宿泊は「薬局」 〔回顧〕

 繁華街片隅の薬局での想像を超えた経験の結果、彼女が居なかった私に歳の差20歳の恋人ができた。 いや、出張先での母親なのかもしれない。 誰が見ても母子の組み合わせであるが、浣腸が縁となって本音での気持ちが通い合っていた。

 東京に来る機会が多いことを知った私の看護婦さんは、「ホテルに泊まらず、これからはうちに泊まったらどう?」と言う。 「そんなことしていいの?」、「私は歓迎よ。一人暮らしは寂しいし、退屈だし、貴方の面倒をみてあげられると思うと楽しくなるわ。」というので、甘えることにした。

 今回の出張は明日仕事が終われば帰阪する予定であったが、明日もう一泊して明後日の土曜日に帰阪することとした。 それを聞いて彼女も喜んでくれた。 今夜から泊まる様に言うので、宿泊する筈であったビジネスホテルに戻り、荷物を纏め料金を精算した。 私にとっては夢の様な出張となった。

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 ホテルから撤収したバッグを持って薬局に戻ると、嬉しそうに出迎えてくれた。

 「お帰りなさい!」の言葉に戸惑いながら、上着を脱ぎネクタイを外した。 「お風呂沸いてますよ。どうですか?」と言われ、そうすることにした。 出張用に持って着た下着の替えを準備していると、「そこにあるバスローブに着替えてね。パンツはいらないよね。」と普段着なれない薄手のバスローブを用意してくれていたが、下着を着けない生活は慣れていた。 経験はないが新婚生活が始まった様な気分だった。

 風呂を出て下着を着けずにバスローブを羽織り居間へ行った。 お茶を入れ、和菓子を食べながら、慌ただしく過ぎた今日の出来事を二人で見つめ合った。

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今後はホテルの予約も不要になり、食事まで面倒みて貰うことも出来ないので、食後に1泊あたり8000円を気持ちに関係なく受け取って貰うことにした。 その方が私も気兼ねなくお邪魔できるし、愛情とは別の約束を交わした。 明日は帰阪するので、2泊分の1万6千円を彼女に渡した。
 「貰ったお金は貯金しておくね。 貯まったら一緒に旅行いきたいなぁ。」
と言っていた。

2018年3月24日土曜日

初めてのセックス〔回顧録〕

 冷たいものが塗られたお尻の穴に、看護婦さんの指が挿入された。 おちんちんがピクリとした。 看護婦さんは指をゆっくりと出し入れしながら、「気持ちいいんでしょ?」と聞かれ、黙って頷いた。 その言葉に気が緩んだのか、おちんちんが勃起してしまった。 「お尻の中の方に痛みはありますか?」、「いいえ、大丈夫です。。。。」と言いながら、声が漏れてしまった。

 指を抜くとイチジク浣腸の袋を破る音がして、黙ってイチジク浣腸が挿入された。 そして薬液が注入された。 「どう? 気持ちいい?」と言いながら勃起したおちんちんを優しく愛撫した。 イチジク浣腸を抜いて、おちんちんを刺激し続けた。 やがて、私の意思に反して白濁の液を放出してしまった。 精液を拭うと私にオムツを着けた。

 そして服を脱ぎ、下着姿で私の横に添い寝をする形で横たわった。 私に軽く口づけすると私の手を自分の乳房へ誘った。 「女性のおっぱいを触ったことは?」、「母のを。。。」、彼女は声を出して笑った。 柔らかく母親と同じ様なおっぱいの感触だった。 暫くおっぱいを弄っていると、今度は私の手を自分の股間へ誘った。 パンティの上から女性を触った。 「初めてなのね。」と言いながらパンティをずらし、女性の部分を出し私の手を取りながら陰部を這わせた。 ここがクリトリス、ここからオシッコが出て、ここが膣、そしてここがお尻の穴と教えてくれた。 私の指をクリトリスに宛がい、「ここを撫でてみて。。。」と言いながら卑猥な声を出し始めた。

 「ここが気持ちいいの?」と聞くと、「全部気持ちいいわ。あ、あ~!」と声をだし、私の指にローションをつけお尻の穴に持っていった。 指をお尻の穴に入れると、「あ、あ~。。。ダメ~」と声をだした。 「僕と同じ様に気持ちいいんですか?」、「私も同じよ。お尻は漏れそう?」、「漏れそうだけど、まだ大丈夫です。」、横にあったイチジク浣腸を私に渡した。 「浣腸するの?」、「うん、入れて~っ!」と自分でパンティを脱いだ彼女のお尻の穴に浣腸を差し込み注入した。 抜いた浣腸を横に置き、再び陰部を刺激した。 「あ、あ~、~~~、イイ~っ!」と声をあげ感じていたが、やがて立ち上がってトイレへ行き、音を出して排泄した。 私も限界が来て、オムツに漏らしてしまった。 トイレから戻ってきた彼女に、「漏らしちゃった。」と言うと、「いいわよ。ちゃんとしてあげる。」と言いながらオムツを開き、お尻を拭ってくれた。 食事前の浣腸でウンチは出てしまっており、オムツには少しのウンチと黄色いシミがついていた。

 私の服も全部脱がせ、自分も裸になった彼女は私のおちんちんを弄った。 再び勃起したおちんちんを握り締め、その上に跨った。 勃起したおちんちんを自分の秘部に入れた。 ヌルッとおちんちんは吸い込まれ、彼女はしばらくそのままでいた。

 やがて彼女は身体を上下させ、のけ反りながら歓喜したが、私にとっては初めての経験なので僅かな時間で再び彼女の中に射精してしまった。 射精を感じた彼女は私に覆い被さり口づけした。 「ごめんね。おばあちゃんで。。。」と言うので、彼女の顔を引き寄せ口づけした。 私にとっての初めての女性経験となった。

 オナニーでの射精と女性の中に射精することの感覚の違いを実感した。 自分と合体している女性が見ている前で淫らに反応することで自分自身も激しく興奮した。

無事すべて排泄して〔回顧〕

 お尻の穴を塞いでいたものがなくなりスッキリしたと感じていると、看護婦さんは私の排せつ物を始末し、汚れたところを拭ってくれた。 「まだ全部出てないから、もう一度浣腸しますね。」と言いながらガラス浣腸器に薬液を吸い上げた。 再度多量の浣腸液を注入し、浣腸器を抜くと再びガーゼでお尻を押さえた。

 「暫く自分で押さえててください。」と私の排泄したものを廃棄し、敷かれたシートの上にオマルを置いた。 「そろそろいいから、ここに出してください。」と言われ、オマルを跨いだ。 浣腸液に混じったウンチが排泄され、お腹の中に何もなくなった感じがした。 オマルの中を見て、「もう大丈夫ね。」と言いながら、私を浴室に連れて行き、湯を出してくれた。 「汚れてるから自分で綺麗にあらってください。」とタオルを置いて戻っていった。

 タオルで拭いながら、元の部屋に戻ると、全て片付けられていて、「どうですか。スッキリしましたか?」、「ありがとうございます。お陰で助かりました。」、「良かったわね。」、「昨日は苦しかったでしょ?」、「はい。どうしようかと思いました。」と言いながら服を着た。 「ここに戻ってきてくれて良かったわ。食事は済ませてるんですか?ウンチが出たらお腹が空いたんじゃないですか?」、「食事するどころではなかったので、まだ食べてないです。」、「丁度良かったわ。私も食事してないから、一緒に食べにいきませんか?」、「私はいいですけど。。。」、「一人暮らしですから、良く外食するんですよ。」と言いながら身支度をし、「何が食べたいですか?美味しいお寿司なら近くにありますよ。良く行くので。」と半分強引に私を連れ出した。

 歩きながら、「他の人にもこんな風にするんですか?」、「そんなことしないですよ。貴方が困ってる様だったし、昨日会った時から私好みだと思ったから。。。」、「そうなんですか。私は母と被って見えました。」、「あら、そうなの。お母さんに浣腸されてたんだもんね。」、「ええ。」、「お母さんのこと好きなの?」、「はい、好きです。」、「へぇ~、いいわね。」といいながら、すし屋の暖簾をくぐり、寿司を食べながら話題が続いた。 子供の頃のことを色々話した。

 店の支払いは看護婦さんがしてくれ、幸せな気持ちで店をでた。 「もう一度、寄って行かない? 注意しないといけないこととか色々教えてあげたいから。」と言われ、後は寝るだけだったので、看護婦さんに従った。 薬局に戻ると、「コーヒー飲みますか?」、「ええ、戴きます。」と答えると、台所からコーヒーの匂いが漂ってきた。

 コーヒーを飲みながら、話しは続いた。 聴いている人がいないので、会話の中身は大胆なものになった。 「浣腸で性的な興奮するんじゃないの?」と聞かれたときはドキッとしてしまった。 「大丈夫よ、病院でも浣腸したらおちんちん固くする人沢山いたから。」と笑っていた。 コーヒーを飲み終わると、彼女は先ほどの畳の部屋にマットの様なものを敷いて、「服を脱いで、ここに横になってください。 お尻の状態を確認しておきますから。」と言うので、看護婦さんの指示に従った。

 下着姿でマットに横になると、パンツを脱がされ両膝を抱える様に言われた。 再びお尻の穴を丸出しすると、冷たいものが塗られた。

母親でない女性の浣腸経験〔回顧〕

 こんな私でも、他の人々と同様、大学を卒業すると一般企業に就職できた。 営業ではなかったが外出が多い、時には出張もある仕事に就いた。 社会人になった私を常に気遣っていたのはやはり母親であった。 仕事が順調であるかというのは勿論であるが、私の身体のことが最大の気懸りだったと思える。 中学校ぐらいからは、虚弱という感覚を持つことは殆どなくなっていたが、便秘症は相変わらずであった。

 普通ではあり得ないと思うが、中学校時代でもそれまでと同じ様に、「ウンチはちゃんと出てるの?」と聞かれることもしばしばあり、「出てない。」と答えると、「浣腸してあげようか?」と言いながら、浣腸されることもあった。 そのことは、母親にとっても私にとっても違和感のないことであった。 そんな状況は、高校時代の半ばぐらいまで続いたと記憶している。 徐々に自分で浣腸することが多くなり、母親の言葉も、「浣腸したの?」と聞くようになった。

 大学時代になると旅行やクラブ活動などで外泊することも増え、荷物の中に必ずイチジク浣腸が幾つか入れてあった。

 社会人になっても母親の心配は変わらず、出張などになると、「浣腸持っていくのよ。」と念を押され、常備しているイチジク浣腸をカバンにいれた。 出張は東京方面が多く、場所が変わると便意が失せることがしばしばであった。 携帯した浣腸は、出張先でのオナニー目的で使うこともあった。

 急な出張でイチジク浣腸を荷物に入れるのを忘れたことがあった。 必要なら出張先で買えばよいと思い新幹線に飛び乗った。 出張2日目の朝、お腹の張りを感じたもののそのまま仕事先に向かったが、不安を感じホテルに戻る途中で浣腸を買おうとしたが、繁華街の薬局で買う勇気がでなかった。 あちこち歩き繁華街の外れに薬局の看板を見つけ、意を決して扉を開けた。 昔ながらの薬局という感じで、中には白い服を着た中年の女性が一人で店番をしていた。 恥ずかしい気持ちが先に立って「浣腸ください。」という言葉は出てこなかった。 「どうされました?」という薬局の女性の言葉に促され、「あのう。。。出張で東京に来てるのですが、便秘で困ってまして。。。」と中途半端なことを答えると、「それはお困りでしょうね。今まではどうされてたんですか?」と聞かれても浣腸とは言えず、「便秘薬を飲んだことはありますけど。。。」と事実とは違うことを答えてしまった。 それを聞いて薬局の女性は色々な薬を説明してくれた。 望む「浣腸」という言葉がなかったので、「早くスッキリしたいので。」と言うと、「じゃ~、浣腸されたらどうですか?使われたことはありますか?」と言いながら、見慣れたイチジク浣腸の箱がカウンターに置かれた。 「子供のころにはあります。使ってみます。」と答えた。 「少し温めると良く効きますよ。」と袋に入れてくれた。

 ホテルに戻り、早速浣腸を取出しオナニーも兼ねてお尻に注入した。 いつもの様に便意を感じながら、おちんちんを弄り射精した。 気だるさを感じながら便器に座ったが、薬液だけが排泄されウンチが出ない。 いつもと違う状況にもう一度イチジク浣腸を注入し十分我慢して排泄したが同じ結果となった。 そのころは摘便の知識はなかったので、どうして良いか判らなくなり、明日の朝に出るかと期待して入浴を済ませ就寝した。

 あくる朝も便器に座ったもののお尻に圧迫感があるだけで出なかった。 仕事もあったのでその日の仕事を早めに済ませ、昨日の薬局を訪れた。 昨日の白衣の女性が同じ様に店に居り目が合うと私を思い出した様だった。 「あら、どうされました? ちゃんと出ましたか?」と聞かれ、「それがぁ。。。薬液だけが出て肝心のものが。。。」と言うと「そうなんですか。それは困りましたね。便が硬くなってると浣腸しても出ないことがありますよ。ちょっと待ってください。」と店のカーテンを閉め、戸締りをした。

 「閉店ですか?」というと、「そうじゃないんですけど、お困りの様なので処置してあげようと思って。。。私は元々看護婦ですから安心してください。」と言ってくれた。 とは言え、どうなるのかと不安だったが、「ここには私しか居ないので気楽にしてください。そんな風になったらお医者さんへ行くしかないでしょ?」、「医者へ行った方がいいんですか?」、「いえいえ、だから私が処置してあげますよ。安心してください。」と言いながら何かを用意していた。

 準備をしながら、「貴方本当は良く便秘になるんじゃないですか? 男性は珍しいんですけどね。」と言われて、「はい。実は今までから浣腸使ってました。」、「やっぱりそうなんですね。昨日来られた時からそう思ってました。」、「バレちゃってたんですね。実は子供の頃から便秘症だった様で、母親に浣腸されてました。 それに小さいころに脱腸になって。」というと、「それで良く判ったわ。浣腸くださいと言いにくかったんですね。」と図星の指摘をされ、「はい。」と答えてしまった。

 店の奥の畳の部屋に通され、「時間は大丈夫ですか? ちゃんと処置してしまわないと自分では出せないですよ。」、「食事をしてホテルで寝るだけですから。。」、「そうですか。それならちゃんと処置できますね。」と用意したものを持ってきた。 私も知っているガラス浣腸器、オマル、それに容器にお湯、シートの様なもの。。。それを見て、目の前の女性が母親と重なった。

 「汚すといけないから、着てるものを脱いでください。」、「全部ですか。」、「はい全部ですよ。寒くないと思いますから裸でも大丈夫でしょ。」と言いながら、1m四方gらいのシートを広げた。 それを見ながら、仕方がないので服を脱ぎ、パンツだけになった。 「パンツもとってください。」と言われ、仕方なく全裸になった。 「お尻の下にシートが来るようにここに仰向けに寝てください。」と言われ、恥ずかしいところを隠すこともなく、仰向けに寝た。

 「固くなってるウンチを指で出してあげますからね。心配しなくていいですよ。」と言う。 お腹全体を押さえながら、「脱腸は今は大丈夫なんですか?」と聞く。 「大きくなってからはなってないです。」、「でも、便秘症だったら余りイキまない方がいいですね。押さえこんだだけなら、またなりますよ。」という。 「両膝を抱える様にしてください。」と言われ、そうするとお尻の穴が丸出しになった。

 「ちょっとお尻の穴が痛いかもしれないけど、我慢してくださいね。」と言いながら、お尻の下にシートの様なものを挿入し、お尻の穴に冷たいものが塗られた。 そして指が挿入されるとおちんちんが反応した。 「気持ちいいのかな。」と呟きながら、指を深くいれたので、快感は失せた。 挿入された指が中で激しく動き、掻きだそうとしている感じがした。 「我慢してくださいね。」と言いながら、痛みを感じるぐらい中で指が動きまわった。

 「少しは出せたけど、中でだいぶ崩したので後は浣腸しますね。」と母親にされたガラス浣腸器よりもかなり大きな浣腸器が容易された。 「沢山入れますから我慢してくださいね。」と薬液を多量に吸い上げ、ゆっくりと注入された。 浣腸器が抜かれると激しい便意があったが、お尻の穴がガーゼで押さえつけられ、何とか我慢できた。 股間からお尻を押さえながら、私の横に座り、「痛かったですか?」、「痛かったけど、大丈夫です。」と答えると、「結構浣腸経験はあるんでしょ?私も便秘症だから良く判るわ。」と話しかけてくる。 恥ずかしさが先に立って、顔を直視できなかった。 「脱腸はどうして直したの?」、「脱腸帯をつけてました。」、「治まって良かったわね。」、「はい。」、「ウンチでそうかな?」、「トイレへ行くのは無理かもしれません。」、「トイレへ行かなくていいわよ。」と言いながら、シートを股間に被せ、押さえている手をはなした。 その瞬間薬液が漏れたのでお尻を絞めて我慢した。 「そのまま出していいわよ。」と言われ恐々お尻の力を緩めると、固形物が混じった薬液を噴出した。 その様子に、「上手く行ったわ。」とにっこりと笑った。 私にとっては羞恥の極みの様な状態になったが、看護婦さんにとっては何ということもない様子だった。

2018年3月22日木曜日

私が浣腸を意識した幼少期 その3 〔回顧〕

 私が浣腸を単なる排便のための手段ではなく、子供なりに性的な意味合いで捉えた、意識したのは3つの出来事が絡んでいる。 既に書いた通り、1つ目の出来事は、幼稚園に通っている頃、鼠経ヘルニア(脱腸)を発症し、排便のために力むことを避けるために浣腸のお世話になったこと、常時脱腸帯を装着していたことでどうしても下半身に性的意識が集中していたことだと言える。

 2つ目の出来事は、母親自身が浣腸使っているのを見、自分も肛門に性的快感を感じ始めたことだった。 このことで浣腸が興奮の材料、快感の材料という意識を強く持ったと思う。

 この浣腸を快感を得る手段として捉える様になったことで、自分自身でも浣腸をしたいと思い、されることに被虐的快感を得る様になったと認識している。 思春期が近づくにつれ、性器への興味も増し、おちんちんを弄ること、浣腸すること、浣腸されることが秘密の行為となった。

 小学校も高学年になった頃、おちんちんを弄ることで強い快感を得る様になり、ある時浣腸をしておちんちんを弄っていると、「あ~っ!」という感じでおちんちんが脈打った。 同時に白いドロドロしたものが出てしまい、自分でどうしてよいか判らなくなった。 取り合えず浣腸していたので排便を済ませ、おちんちんを綺麗にした。 しかし、その時の快感は、それ以降の日常生活において忘れられないものとなった。

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 小学校の高学年になっても母親に浣腸されていた。 これは、私の問題だけでなく、母親にも浣腸嗜好があった故だと思う。 特に風邪などで臥せった時などは浣腸されることが多かった。 浣腸に解熱効果があることと、浣腸したいという母親の嗜好、私にされたい意識があって拒まなかったことでそうなっていたのだろう。

 小学校高学年は、成長段階としては思春期であり、上記の様に射精もあった。 風邪で臥せっていると母親が、「ウンチは出そう?」と聞いてきた。 横になっていると便意は感じにくいこともあって、「出そうにないよ。」と言うと決まって、「浣腸しとこうか。」と言いながら準備をした。 幼少の頃から、臥せっている時はオシッコは尿瓶、ウンチはオマルでの浣腸排泄だった。 臥せっているときは、布団の裾の方が捲られ下半身を裸にされて浣腸排泄だった。 浣腸されると思うとおちんちんが反応する様になったいた。 その時も下半身を裸にされた時おちんちんは大きくなっていた。 母親もそれに気づいていたと思う。

 「先にオシッコしなさい。」と言いながら、少し大きくなったおちんちんを尿瓶の口にいれた。 オシッコが終わると両膝を立てた股間からお尻の穴に軟膏が塗られ、ガラス浣腸器が差し込まれた。 浣腸液が少しだけ注入された段階で浣腸器が抜かれ、いつもとの違いを不思議に思っていると、おちんちんに母親の手の感触があった。 きっと勃起していたんだと思う。 おちんちんが優しく刺激され、暫くして射精してしまった。

 「スッキリしたでしょ?」と言いながら、残った浣腸が注入された。 恥ずかしかったことを覚えている。

2018年3月21日水曜日

私が浣腸を意識した幼少期 その2 〔回顧〕

 私の母親は大正生まれの古風な人であった。 その様な時代だったのかも知れないが、洋服を着るのは外出する時ぐらいで、普段は和装が主だった。
私が虚弱であり、母親の心配の種であったこともあるのだろうが、幼稚園へ行くまでは、四六時中母親にべったりくっついていた。 寝起きも、風呂に入るのも、母親が着替える時も傍に居たと思う。 従って母親の一挙手一投足を見ており、風呂や着替えの様子もしょっちゅう目にしていた。 和装が主であった母は、外見は普段の着物の上に当時当たり前の割烹着を着ていた。 何をするにもその様な姿が今でも目に焼き付いている。

 母を笑いものにする積りではないが、和装の中について少し話しておきたい。 大正から昭和初期を生きてきた母親にとっては時代背景から当然であるが、和服の中は、襦袢と腰巻きが当たり前で、今の様にパンツやパンティと言ったものは着けていなかった。 生理の時はT字帯といわれるものを股間に当て、出血を止めていた。 いつも傍にいた私は母親のそんなことを全て見ていた。

 話しが脱線するが、昭和7年12月16日に東京日本橋にあった白木屋というデパートで大火災が発生した。 死者14名、負傷者500名以上という悲惨な事件である。
必死の消火活動、救出活動にも拘らず多くの犠牲者を出した背景に百貨店女子従業員の服装の問題があったらしい。 和装中心の百貨店従業員は、私の母親同様、パンツという様な下着を着けておらず、はしご車やロープでの救出を躊躇し、焼死したり墜落死したと聞いている。 ビルの上の階よりの救出となるとどうしても着物の裾が開き下から陰部が見えたり、下半身が丸見えになるのではないかとの躊躇いである。 この事件以降、女性の下着が急速に普及といわれている。

 この様に母親の若いころは和装の中は腰巻き程度が普通であり、それに慣れていた母親は太平洋戦争後も慣れた服装でパンツなどを着けていないことしばしばだった。 小さいころは母親がトイレに入っても横に居たことがあり、着物をたくし上げ、そのまま放尿している姿も記憶にある。 いつも母親のトイレについていった訳ではないが、ある時、私が傍に居る時、和式便器にしゃがんで苦しそうにしていた。 そして、「たかおちゃんと同じ様に、お母さんもウンチでないの。」と呟いた。 そして股間を紙で拭くと立ち上がり、居間に戻った。 私の排泄の全てを面倒見ている母親にとって、自分の排泄を私が見ていることに大きな抵抗はなかったのだろうと思う。

 ウンチが出なかった母親は、私に「ちょっと待っててね。お母さんも浣腸するから。」と言って押し入れからイチジク浣腸を取り出し、私が居る横で座布団の上に仰向けに寝ると両膝を上げ股間から自分で浣腸を差し込んでいた。 私は自分と同じなので別に気にもしていなかったが、今になって思い返すと異常なことだと言える。 暫く我慢した母親は、「チョット待っててね。」と言ってトイレへ行った。 そんなことは1度ではなかった。

 頻繁ではないが、母親が自分で浣腸する姿は何度か目にしていた。 自分がされていることと同じことを自分でしている母親に違和感もなかった。 逆に、母親もウンチがでないことがあることが自分が特別なんじゃないとの安心感を与えた。 母親も自分も浣腸するんだということを見せることで、私に安心感を与える意図があったのかも知れない。

 ある時、見たことがある格好で座布団に仰向けに寝て両膝を立てている母がいた。 やはり浣腸をしていた。 しかしその後がいつもと違っていた。 イチジク浣腸を抜き横に置いて、手で股間を弄り、うっとりとした様子であったことを覚えている。 暫くすると立ち上がり、トイレへ行ったと思ったが、トイレから呻き声の様なものが聞こえた。

 今になって思えば、浣腸オナニーだったのだろうと想像する。 そんな様子を見たことで、母親にも強い浣腸嗜好があったんだろうと想像する。

 物心ついた頃から当たり前であった浣腸。。。。。自身が鼠径ヘルニアを経験することで浣腸に特別なことなんだと感情を抱き、また、自分自身の肛門に何か不思議な快感を感じる様になった。 そんな状況の中で、これまで気にしていなかった母親自身が浣腸を使う姿を見るに、徐々に浣腸に特別な感情を抱く様になっていったと言える。

 幼稚園の頃に発症した脱腸は、家の中だけでのことではなく、自分自身が家を離れて通園し、幼稚園の保母さんにも苦労を掛けることとなっていた。 脱腸は簡単に治るものでもなく、脱腸症状を抱えたまま小学校へ上がることになった。

私が浣腸を意識した幼少期 その1つづき「肛門性感」 〔回顧〕

 前述の様に、無意識のうちに肛門性感が目覚めていたのだろう。 布団に入ってから眠るまでの間、手が股間を触っていることが多かった。 おちんちんを触っているというより、無意識にお尻を触っていたと思う。

 今でも記憶にあるのは、私に使った浣腸を母親が捨て忘れ、部屋に残されていたのを取り置いたことがある。 母親が不在の時、薬液が入っていないイチジク浣腸を自分でお尻の穴に挿入してみたことを覚えている。 その時、浣腸をお尻の穴で出し入れすることでの気持ち良さを覚えた。

 それが切っ掛けで、家に買い置きされていたイチジク浣腸を自分で使ってみたこともあった。

 心理性的発達理論で「肛門期」という時期が2~4歳ごろにあるとされている。
フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。 子供は排便を意識し、コントロールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓練)」が可能になる。 時期については諸説あるが、おおむね2歳から4歳頃までとされる。この時期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。 そのため自分の欲求を即座に満たそうとする場合がままある。 何も教育しなければ、どこでもうんちをしてしまう子供であるが、排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることで、性格や自己規律に対して何らかの影響があるとされる。
 親は、この時期の子供に対して規則正しく衛生的に排便するように教育することが求められる。 そうした親からの働きかけが社会的圧力となり、「適切な排泄行為をしなければならない」という規律と、「母親の要望にこたえられた」という達成感や充実感を得る。 このような教育が子供に徐々に適切な排便を身に付けさせていく。
 子供は排便のタイミングを自分で判断するようになると、「自信」や「ものを諦める能力」や「我慢する能力」が発達し、自律のための重要な一歩を踏み出す。 ただし、この時期の肛門を自分の意思で自由にコントロールできる感覚をしっかりと身に付けなければ、子供のパーソナリティにさまざまな問題が生じる可能性があると言われる。
                           <Wikipediaより>

チャットで聞いた共感と驚きの話し つづき

 ご本人(息子)と母親は、コーヒーを飲みながら無言でテレビを見ていた。 暫くして母親が、「今日は出たの?」と子供のころの様な質問をした。 「出てないけど。。。」と息子が無造作に答えると、「じゃ~、浣腸してあげようね。」と息子を促した。 アラフォーを迎えた息子はどうしてよいか判らずに居ると、「ズボン脱ぎなさい。」と言われて立ち上がった。 ズボンを脱ぎ下半身パンツだけになると、「ここに四つん這いになって。。。」と言われ、ソファの上でパンツのまま四つん這いになって母親にお尻を向けた。

 子供の頃の様に、母親はパンツを脱がし剥き出しになった息子のお尻の穴に浣腸を差し込んだ。 母親は息子のおちんちんが勃起しているのに気づいていたのか、注入が終わるとティシュでお尻の穴を抑えながら、勃起したおちんちんを少し触った。 そして、「中学校の頃も、おちんちん立ってるのお母さん知ってたわよ。」と言われ、本人は赤面してしまった。 やがて「トイレ!」と言って母親から離れ、下半身裸のままトイレで排泄した。 排泄しながら、息子の頭の中は、母親にも浣腸したいと思っていた。

 下半身を剥き出しにし、おちんちんを手で握り隠した状態でトイレから出てきた息子に母親は、「お母さんにもしてくれる?」と言われ、再びおちんちんを勃起させた。 自分の妄想と現実が重なり、心臓がドキドキしたらしい。 母親の感覚は子供のころの息子を相手にしているのと変わっていないのだろう。 履いていたスラックスを脱ぎ、パンツだけになった。 決して女性のショーツといったものではなかったが、息子の心臓は経験したことのない鼓動を起こした。

 自分が下半身剥き出しであることを忘れ、残ったイチジク浣腸を手に取り袋を破った。 ソファに仰向きに寝た母親のパンツを下げると還暦を超えた女の秘部が見えた。 「こんな格好でいいの?」と言うと母親は両膝を抱え、お尻の穴を突き出した。 「お母さん、入れるよ。」と言いながら、イチジク浣腸を差し込み薬液を注入した。

 息子は浣腸を抜くと、堪らず母親の秘部を触った。 母親も勃起したおちんちんを手にした。 その後の成り行きは、読者の想像におまかせします。

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チャットでの会話で、聞いた話しが作り話しかどうかは判らないが、驚いたと同時に殆どの内容に共感した。 私は母親と近親相姦に至る様なことはなかったが、息子に浣腸することに快感を感じるということは、私の母親にもあったのではないかと改めて感じることが色々と思い出される。

チャットで聞いた共感と驚きの話し

 先日チャットで待機していると、アラフォーの男性が入室してこられました。 「ブログを書いておられる”たかお”さんですか?」と突然聞かれた。 男性なので躊躇ったが、「はい」と答え、挨拶を交わしチャットを進めた。

 その方に聞くと、実は自分も同じで幼少期に母親からしばしば浣腸された経験があり、今も浣腸に執着を持っているとの話しの始まりだった。 私も同胞の士の様な気がして、その方の話し共感の意を伝えた。 その方も、私と同様便秘になることが多かったらしい。 話しを聞くと私の様に体質的というより、場所が変わったり嫌なことがあったりするとそうなるらしく、話していても非常に優しい感じがする方だった。

 私も若干そんな面もあるが、アルフォーを迎えた今でも仕事でストレスが多いとか、出張などで環境や場所が変わると便秘になることがあり、自分で浣腸することが多いと話しておられた。 私も大人になってから、馴れていない場所での排便は、便意が生じにくいと共感の会話を交わしていた。 浣腸すると我慢しながらオナニーをしてしまうという内容についても、私も同じだと言葉を交わした。

 その方がお話しになりたいことは、今も自分で浣腸するということではなく、母親に浣腸されていた子供のころのことだった。 ウンチが出ないことで困って浣腸されたというより、母親から積極的に浣腸され違和感があったとの内容だった。 その方は、便秘になることが小学校時代を過ぎ、中学校へ上がってからも母親に浣腸して貰ったことがあると話しておられた。

 その方は、チャットで話していても内気な優しい方と感じた。 それが原因かどうかは判らないが現在も独身で母親と暮らしているらしいが、高校生ぐらいから母親に浣腸されることはなくなり、ウンチが出なかったら使いなさいと浣腸の買い置きがあり、使ったこともあると話しておられた。

 アラフォーになった今は自分で浣腸を買い、自分でしているが、ある時、母親と夕食しながら何故か子供のころの浣腸の話しになったらしい。 「まだ便秘になるの?」との母親の問いかけに、「出ない時もあるよ、浣腸することもあるけど。。。」と話したとか。

 子供の頃の母親の積極的な施浣の違和感が心に残っていたその方は、「中学校へ行ってからも浣腸して貰ったよね。」と言ってみたらしい。 母親はポロッと、「お母さんは貴方に浣腸するのが好きだった。。。」と言い、「・・・・」と返事に困ったものの、されたい気持ちが強く湧いてきたらしい。

 「良かったら、昔の様に浣腸してあげようか?」と母親の続く言葉に、「。。。。うん!」と頷いてしまったらしい。 「じゃ~、食事が終わったらね。お母さんも出ない時はするのよ。」と嬉しそうに自分のことを言ったとか。 そんな会話をしながら食事も終わり、母親は食事の後片付けをし、自分はテレビを見ていた。 アラフォーになった自分と、還暦を超えた母親、そして30年近く以前の浣腸のこと。。。。頭の中が混乱していた。

 後片付けが終わった母親は、コーヒーをテレビを見ている息子の前のテーブルに置いた。 そしてポケットからイチジク浣腸の箱を出し、テーブルに置いた。

私が浣腸を意識した幼少期 その1 〔回顧〕

 私の生い立ちの振り返って、治療のための浣腸ではない何か特別なものという意識を持ったことがある。 それは思春期に至るまでに3回あった。

 最初に浣腸を特別なものとして意識したのは、鼠径ヘルニア(脱腸)を発症した時だった。 それまでは、ウンチが硬くて出ない、だから浣腸して出すんだ。 それで自分もスッキリするという感覚でしかなかった。 私の健康のために母親は浣腸するんだと単純に理解していた。 しかし鼠径ヘルニアの発症に伴い、ウンチが出ないから浣腸するというのではなく、浣腸によってウンチを流し出すという感じに変化したことを記憶している。

 その為、子供用のイチジク浣腸やガラス浣腸器での少量のグリセリン浣腸だったものが使用するガラス浣腸器が大きなサイズに変わり、注入する薬液の量も多くなった。 ウンチが出ない時に便意を起こさせる程度だった浣腸が、薬液によってウンチを洗い流すといった状態に変化し、浣腸への意識が大きく変わり、日々特別なことをされているという認識を持った。 この頃から、浣腸という行為に強い興味を持ち始めていた。

 しかし、状況の変化や施される治療の変化だけで、浣腸に強い執着を持った訳ではないと思える。 人間本来肛門性感というものがあり、幼少期はそれが強いと聞いたことがあるが、肛門を弄られる機会が多かったことで無意識の心地良さを感じていたのではないかと思う。 その様な何とも表現のしようがない心地良さとそれを生み出しているのが浣腸ではないかという意識に目覚めたのではないかと思う。

子供の頃の脱腸帯〔回顧〕

 脱腸(鼠径ヘルニア)を発症した原因は定かではない。 便秘で排便時に気張ることが脱腸の原因なのか、その様な状態だったから便秘になっていたのかは私は知らない。 しかし無関係だったとは思えない。 それからはトイレで気張ることはできなかった。 即ち排便は浣腸で行う様になった。 多分2週間ほどは幼稚園を休んだと思う。 その間は自宅に居て2日に1回は浣腸となった。

 サポータの様なものは四六時中身に着けていた。 それを外すのは風呂に入るときと、浣腸して排便するときだけだった。 そんな状態が1週間ほど続いたある日、また連れられ採寸した場所に行った。 また下半身裸になり、変な器具が装着された。

 それが「脱腸帯」というものであった。 貞操帯の様に金属の芯が入った固いベルト状のものがあり、丁度おちんちんの右側に当る様にゴム球がついている。 そして、その貞操帯からゴムベルトが2本垂れている。 固いベルトを腰に巻き、ゴム球をおちんちんの右側に当てる。 丁度脱腸を発症している位置だ。 そしてその固いベルトがずれない様に、垂れたベルトを後ろからお尻の割れ目に沿っておちんちんの左右に持って来て、ベルトと固定する。 これで普通に身体を動かしても、貞操帯がずれない様になっていた。 試着し体形にあうことが確認された。

 予定通りのものが出来上がったので、医者でつけられてたサポータの様なものは取り、その「脱腸帯」を着け、交換用の同じ脱腸帯も貰って家に帰った。 歩いていても「脱腸帯」に違和感があり、蟹股歩きになっていたと思う。

 サポータはなくなったが、その代わりに脱腸帯をつけていることが日常になった。 サポーターと同じ様に、お風呂に入る時も浣腸してウンチをする時も身につけていた。

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 脱腸帯は幼稚園通園時は当然着用しており、卒園する時点でも治癒していなかった為、小学校入学以降も着用していた。 成長と共に身体の大きさに合わせて作り直す必要があったため、両親も大変だったと思う。
 通園の頃は、着替えるということは少なかったので、人目をきにすることは余りなかったが、小学校へ上がってからは、体操の時間、身体検査(健康診断)など服を脱ぎ着することがあり、秘密にしておくことができなかった。 体操の授業や身体検査の時には、特別扱いされたことで男女を関係なく同級生にしられてしまうことになる。

 小学校で、私の近所に住む同級生の女の子がいた。 日頃から親しくしていたが、小学校で私が脱腸であることを知り、強い興味を持っていた。 母親同士も近所付き合いがあった。

2018年3月20日火曜日

鼠径ヘルニアを発症〔回顧〕

 いつもの様に、ウンチが出ないと浣腸という状況に変化はなかった。 その日も、浣腸するために下半身は裸で寝かされた。 浣腸となる筈のところ、私のおちんちんやタマタマを触ったり持ち上げたりしていた。 やがて、浣腸せずに父親を呼びにいった。

 母と父は、私の股間を見て、医者に行く相談をしていた。 後でわかったが、それは「脱腸(鼠径ヘルニア)」を発症した瞬間だった。 私自身は、違和感はあったものの、これと言った自覚症状はなかった。

 「脱腸」というのは、内臓の腸の一部が、骨盤の間から下に下がり、おちんちんや陰嚢の辺りに迫り出してしまう症状で、その部分が膨れた様になる。 母親が発見したときは重症には至っていなかった様で、父親の指示で出ている部分を押し戻すと症状は回復した。 しかし、再発は明らかで放置できない。

 その日の浣腸は中止され、脱腸になった部分を中に納めることで、翌日医者に行くことになった。 そして、ウンチは出さないまま寝床についた。 何となく自分でも判ったので、その部分が気になった。

 寝るときもパンツはつけず、パジャマのズボンだけで寝た。 寝てからも気になる母親は布団を捲くり、パジャマを下ろしてその部分を確認していた。 私自身、何が起こっているのかは全く理解できていなかった。

 明くる日、早速医者に連れて行かれた。 どの様な医者に行ったのかは私にはわからないが、そこでの治療は比較的記憶に残っている。 診察や治療は、それまでに経験したことがないものだった。

 昨日の状態は、また発生していた。 私の場合、おちんちんの右横の部分に内臓の腸の一部が迫り出している感じになっており、自分でも判った。 ただ母親の発見が早かったことが幸いし、手術ではなく治療が可能だと判った。 多分親はその診断でほっとしたと思う。

 診察室で下半身裸になり、医師の診察を受けた。 脱腸を発症している部分の触診で概ねの判断があったのだろう。 早速の治療となり、診察台に寝かされた。 今になって思えば、産婦人科の診察台の様に、両足が固定され恥ずかしい部分を丸出しになった。 母親に浣腸されるのとは違い、気持ちの上では凄く恥ずかしく不安な状態だった。

 暫らくして診察と治療が始まった。 脱腸部分は丁寧に押し戻され、正常な状態になった。 それからは、以前に医者で排便治療された時とはじめのうちは似ていた。 お尻の穴に器具が挿入され、その内浣腸され、診察台に寝たまま排便した。 お尻の穴に冷たいものが塗られた。 そしてお尻にタンクから伸びた管が挿入され、「我慢するのよ」と看護婦さんに言われながら治療を受けた。 高圧浣腸、即ち「イルリガードル」による浣腸だった。 日頃の浣腸と比べ物にならない量の薬液がお尻の穴から注入され、非常に苦しくなった。 管が抜かれると一挙にそのまま排泄した。 2度ほどの高圧浣腸の後、お尻の穴に薬品が塗られた。 そしてお尻の穴からおちんちんなどが消毒液で洗浄され、おちんちんは出した形でサポーターの様な形で固定された。 その姿は、おちんちんを隠さないTバッグのパンツを履いた状態で、オシッコは出来るが、ウンチは出来ない状態になった。

 その日の治療は、それで終了し、母に連れられ自宅に戻った。 激しい運動、特に下半身に力をいれることは禁止されていたので、自宅で大人しくしていた。 次の日、また連れられて別のところへ行った。 医者ではなかったが、下半身裸にされ、腰の部分や股間の部分のサイズが測られた。 下着のパンツを特注する様な感じだった。

 後で判ったが、寸法を測った作成されたものは、「脱腸帯」と言われる、貞操帯の様な器具(補助具)であった。

浣腸の解熱効果〔回顧〕

 虚弱だった私は、しばしば風邪を引き熱を出して寝込んでいた。 そんな時は、食事も寝床で食べさせて貰い、お漏らししても良い様にオムツを当てられていた。 というのも、母親が買物などで出かけている間にオシッコを催した時の対策だった。 一人で起きてトイレに行って風邪が酷くならない様にとのことで、何度か寝たまま放尿したことを覚えている。

 熱が下がらない時は、母親が電話で医者の往診を頼んでいることが多かった。 熱を出して寝込んだ時、往診の医者にされることは概ね決まっていた。 往診してくれる医者は女性だった。 上半身を裸にされ、胸と背中に聴診器をあてられ、それが終わると仰向けに寝かされてお腹を色んな方向から抑えられた。

 印象的なのは、自宅での検温は脇の下に体温計を挟んで行われたが、医者の検温は何故かパンツを降ろされ、お尻の穴に体温計が差し込まれるのが常だった。 お尻の穴で検温しながら、「痩せ気味の人には肛門で検温する方が正確ですよ。」と母親に説明していた。 母親は、「じゃ~、買っておきます。」応対していた。 それが終わると決まって、「浣腸しましょうか、早く熱が引くと思いますよ。」と医者が話していた。 それを聞くと母親は新聞紙とオマル、それに濡れタオルを用意した。 検温でお尻を出したままの状態で布団が掛けられ、医者はカバンから金属ケースを取出し、浣腸の準備をした。 やがて再び布団が捲られると、お尻に家のものより大きいガラス浣腸器が差し込まれ、薬液が注入された。 浣腸器が抜かれると母親がお尻の穴を押さえていた。

 暫く我慢させられた後、布団の横に置かれたオマルを跨がされた。 そして勢い良く液体を排泄、続いて排便。。。。お尻を拭われてパジャマを着せられた。 仕上げはお尻か腕に注射であった。 これで「熱は引きますから。。。」と言い残し、道具の始末をした医者は立ち上がった。 帰り際、母親に「熱が引かない様だったら、明日にでももう一度浣腸してください。」と言い置いて帰って行った。

 何故かは知らないが、今の様に解熱の座薬などがない時代、浣腸は即効的な解熱剤だったらしい。 浣腸が効いたのか注射が効いたのは判らないが、夕方に熱は下がり、食事もできた。 寝込んだ時はいつもそうであったが、オムツを宛がわれその夜は良く寝ることができた。

小児便秘〔回顧〕

 私自身もオマルを利用していたことを覚えている。 ただ私の場合、他の子ども達とは違っていたらしい。 普通は便意と共にオマルに跨り、用を足すことになるが、私のオマルに跨り力んでも目的のものが出ないことが多かった。 そんなことが3,4日も続くとオマルから降ろされ、下半身裸のまま浣腸され、暫くお尻を紙で抑えられた後、再びオマルを跨いだ。 浣腸される前と違って、力まなくても勢いよく排泄が始まった。 最初は液体だけがほとばしり、暫くして硬い固形物が排泄された。 それを見て母親は、「偉いね。頑張ったね。」と励ましてくれるのが常だった。 物心ついた頃からそうであったので、自分では特別なことだと思っていなかった。

 「たかおは、ウンチが硬いから。。。」と呟いていた母をいつも思い出す。 そのことが大きな苦痛を伴うこともなく、浣腸されることでお腹はスッキリしていたので何の不自然さも感じることはなかった。 先が尖ったイチジク浣腸の姿は今も変わらない。 当時はキャップ式ではなく、先端部分に添付の釘で穴を開けて利用していた。 容器も柔らかい材質ではなく、注入時に押し潰すと潰れたままの形状で丸く復元はしなかった。

 しかし、私が浣腸をされている内に、イチジク浣腸も進化し、柔らかい復元する容器になり、先端もキャップ式に変化していった。

 家にはガラス浣腸器があった。 グリーンがかった色のガラスで出来ていた。 余裕のある時は、ガラス浣腸器が使われることもあった。 イチジク浣腸もガラス浣腸器もグリセリン浣腸であるからされる私にとっては余り変わることはなかった。

小学校高学年の頃、プールで溺れる!〔回顧〕

 虚弱だった私を、少しでも元気に遊び回れる子供にしようと両親が思いついたのが、当時まだ珍しかったスイミングスクールだった。 昨今の様に小学校でもプールが完備されているとのが当たり前の時代ではなく、当然、授業にもスイミングはなかった。 たまに学校から近くのプールへ団体で出向く程度だった。

 時代から考えて、両親の発想は斬新だったと思う。 しかし、当の本人にとっては試練以外の何ものでもなかった。 私にとっては「水」しかも大量に溜まった深みのある水は、恐怖である。 しかし、親切なインストラクターに促され水に入り、泳ぎの真似ごとをしていた。 ある程度慣れると、暑い夏に水に入るのは心地よかった。

 しかし、運動神経の鈍い私は、水に浮くという技が習得できない。 普通に泳げる人にとっては理解し難いことだと思うが、脚で底を蹴って身を横たえると石ころの様に沈んで行く。 隣にいる子供は浮いているのに、私は何故か時間の経過と共に徐々に沈んで行く。 インストラクターも笑っていた。 「身体の力を抜け!」と言う。 しかし、身体の力を抜こうとすると、そのために余計身体が緊張する様な気がして儘ならない。

 スイミングスクールがあったプールは、50m級の競泳用本格プールだった。 と言うかその様な公的な目的のプールぐらいしかない時代だった。 スイミングスクールは、その広大なプールの一角に底板を設置し、我々子供が立って胸あたりに水面が来るように工夫されていた。 問題はその底板が全面ではなく、ほんの一部分だけだったことにある。 それを知らない私は、泳ぐでもなく水中を彷徨い歩いている内に底板の端を踏み外していたらしい。

 不思議と太陽の光が差し込むのを見ながら、身体はプールの底に向かってゆっくりと沈み始めていた。 どうやら私が姿が見えないことに気付いてくれたインストラクターによって、私の身体は水面へと引き上げられた。 気づいてくれなかったら、今頃この様なブログを気楽に書いていることもなかったと思う。

 私にとっては、生死の境を彷徨った経験だった。 少々大袈裟かな?

2018年3月18日日曜日

虚弱体質だった筆者〔回顧〕

 筆者は、戦後間もない頃、関西の普通の家庭に生まれた。 何故か生まれつき虚弱だったらしい。 体格も細身で、屋外で戯れたり、無茶なことをする様な元気なタイプではなかった。 両親が若い頃の子供ではなかったので、活発な行動に自然と制約があったのかも知れない。 風邪をひき熱を出して寝込むことも多かったと記憶している。

 でも、5歳の年には幼稚園に通い始め、7歳の年には皆と同じように公立小学校に入学した。 幼稚園や学校でも普通に友達と生活はしていたが、他の子供達の様に駆け回り、元気に遊ぶということは、どちらかと言うと苦手で、大人しいと評された。

 そんな私だったが、先生や友達にも恵まれ楽しい幼稚園や学校での生活を送ることができた。 ただ、運動神経が鈍いというのか、体操や球技など他の子供達が当たり前にできることが苦手だった。 「奥手」とか「運動下手」と自覚することも多々あった。

 この様に、幼児のころから虚弱であったことが、私を浣腸と出合わせ、嗜好として定着させたと思う。 今でも心に残る浣腸に纏わる出来事をこのブログに綴りたいと思います。

 また、最近の行為や思いも併せて書いて行きます。 興味をお持ちの方や同じ様な嗜好をお持ちの方に愛読いただきたいと思いますし、男女に限らずメールやチャットでの交流を望んでいます。 宜しくお願いします。